エジプト・イギリス留学→大手メガベンチャー会社に就職→日本にて起業→タンザニアにて事業創出 角田 弥央さんの就活とキャリア
角田さんについて
「薬学部5年生の時にエジプトとイギリスに3ヶ月間留学し、国家試験・大学卒業のタイミングでタンザニアでインターンシップしました。その後日本の大手メガベンチャー会社に就職。それでも留学やインターンシップで魅了されたアフリカへの想いが強く、会社を辞めタンザニアで現地の仲間と事業を立ち上げています。現地の経済的な自立をサポートし、アフリカと日本の会社がビジネスパートナーとして歩んでいけるよう環境を整えることが現在の目標です。」
幼少期からスポーツが大好きで活発だった。
物心着いた時から泳いでいて、気付いたら選手コースで社会人の方々と毎日トレーニングしてました。幼少期からアクティブで、じっとしているのが苦手。いつも気づいたら動き回っていた気がします。小学校の時には陸上やトライアスロンも始め、ひたすらスポーツに没頭する日々を送りました。私の母は教育に熱心で、スポーツに没頭する私を見て「勉強もきちんとしなさい」と毎日のように言われていました。
親からの期待に応えるために文武両道を目指す一方で、この頃から既に本心では「もっとワクワクした体験をしたい」と考えていた気がします。振り返ってみると小学生の頃には既に自我が芽生えていたというか、「誰かに人生のレールを敷かれるのではなく、自分で意思決定していくこと」を求めていたように思います。
中学時代に、自分の意志で私立女子校から公立共学校に転学。
母の影響で中学は中高一貫の女子校に進学しました。「勉強に集中して欲しい」と願っていた願いとは裏腹に、とにかくスポーツがやりたかった、いろんなことに取り組みたかった私。入学直後からちょっと不良気味でした。親を失望させないため勉強だけは劣らず成績も良かったのですが、気に入らないことがあれば先生にも物申してしまうような悪ガキでした。それなのに学級委員長を務めていて。当時からリーダーシップはあったのではないかと思います。
中高一貫校なのでこのまま6年間通うこともできたのですが、このままだと自分が思い描く人生とは異なる人生になると思い、中学2年生になる前、父に「公立校に転校したい」と相談しました。父は賛成してくれたのですが、母は「おしとやかな女性に育ってほしくて私立の女子校に入れたのに…」と反対。それでも自分の意思で決定することを優先したかった私は、公立の中学校に転校しました。
いわゆる”転校生”として入った公立の中学校には、女子校にはいなかったような様々な人がいました。いろんな人たちと友達になりたかったのですが、転校生というだけで目立ってしまい、話したこともない人から悪口を言われたり、事実でない噂を流されたり。この時の経験から、「自分って他の人と違うのかも」「社会のフレームワークから飛び出ようとする人は叩かれやすいのかも」という思いを感じるようになりました。
自分でも明確にやりたいことが見つかった訳でもなく、結局中学の2年間はもやもや過ごし、そのまま地元の都立高校に進学しました。高校までは全く海外に興味などなく、ただただ社会で敷かれたレールの上を歩いて生きていました。親からの期待に応えなくてはと思いながらも具体的に何をしたら良いのかも分からず、もやもやした時間を過ごしました。
どん底を味わった浪人時代。
大学受験では、何となく防衛大学を受験しました。これまで様々なスポーツを通しての経験から、自分の限界に向き合う性格なんだなとぼんやり気付いていました。自然に触れるのも好きで、高校生の頃から海の生き物を撮影する父の仕事も手伝っていたり、図書館で科学物理と国の関係について目に触れることが多かったり、とにかく”好奇心”の赴くまま過ごし、”勝手な責任感”をもっていました。防衛大学には、物理化学や生物などの自然分野における研究分野が意外と豊富に揃っているんですよね。
4月の入学へ向けて入寮の準備まで進めていたのですが、入学直前にとある海外のニュースでまた気持ちが揺らいでしまいました。当時、北朝鮮と韓国の対立に関する海外の情報が報じられていたんです。初めて日本以外の国に興味を持つようになり、気付けばまたもやもやした気持ちを抱いていました。家族からは当然また猛反対を受け、そこで「自分のやりたいことって何なんだろう」と行き詰ってしまい、入寮の3日前に浪人を決意しました。
中学生の時は転校という道を、高校生の時は浪人という道を自分の意思で決めつつ、今回は周りからのプレッシャーなのか、家族のプレッシャーなのか、自ら自分を追い込んでいたように思います。自分で決めた人生なのに、浪人した1年間は精神的にかなり辛かったです。今思えばこの頃は落ちるところまで落ちていて、人生のどん底でした。浪人していても相変わらず目指したいことがある訳でもなく、自分の将来をどうしたいのか、自分でも分からない日々。あまり悩まない性格のはずが、「自分らしさ」に欠けていた時期でした。
そんなある日、ドイツで医学を学んでいる方に出会いました。その方は、今でいう瞑想や運動療法で患者さんの心のケアをしている方で、海外の医療体制や海外情勢などについてお話ししてくださいました。それまで海外との接点はなかった私ですが、海外で得た知見を持っている人の考え方は面白いと感じました。この方と出会ったことがきっかけで、一気に目の前の道が明るくなったように思います。「日本の外にはどのような世界が広がっているのだろう?」「なぜドイツをはじめとする海外では薬を使わない自然治癒療法が進んでいるのだろう?」と次々と海外や医療に興味を抱くようになりました。そこで2回目の大学受験では薬学部を受け、明治薬科大学に入学しました。
東南アジアでのバックパッカー経験で海外に目覚める。
大学に入学すると、早速「外の世界を見てみたい」と思った私は東南アジアに渡り、バックパッカーとして旅をしました。滞在先は、知り合いが住んでいたインドネシアのスラウェシ島。そこで目にしたものは、東京にしか住んだことがない私にとっては衝撃でした。
空港に着いた瞬間からものすごいインパクト。お店が複数個並んでいる以外は何もないんです。自分の周囲やインターネット・新聞などから得ていた情報とはかけ離れた世界に驚きながらも、現地の人に歓迎してもらいながら毎日一緒に歌ったり、踊ったり、小さな画面で映画を観たりしながら充実した日々を過ごしました。出会った現地の人も将来の夢を語ってくれたり、家族のために出稼ぎにきていたり、現地の人が裕福とは言えない環境の中でも笑顔で人生を楽しんでいる様子を見てハッとしたのを今でも覚えています。毎日満員電車に揺られながら大学に通い、ムスッとした顔で大学生活を送っていた自分が恥ずかしくなりました。
この時「やりたいことがあっても生まれた環境のせいでそれを実現できない人のために動きたい」と思うようになったことが、後に起業するきっかけになったと思っています。ちなみにその後インドネシアをはじめとするアジアにドハマりして、何度も渡航しました。
留学へ向けて奮闘した日々。
インドネシアでの経験がきっかけで「些細なことに悩んでいないで、誰かに貢献できる人生を歩みたい」と、スイッチが入った私。まず取り組んだのは、英語の勉強です。何しろ大学に入るまで海外に目を向けたことがなかったので、本腰を入れて英語を勉強したのはこの時が初めてでした。薬学や英語の勉強に加え、貧困や開発に関する勉強も同時並行で行っていました。現場に足を運びたいという思いから、長期休みの度に東南アジア諸国にある薬局や保健センターを訪れました。現地に長期間滞在できる留学も2年生の頃から考えていました。でも、医療の世界ではある程度の専門知識がないと留学しても研究に付いていくことができないと思ったんですよね。だから、5年生になったら留学しようと決めていました。
そもそも留学できる資金の余裕もなかったので、留学に行くまでの3年間は、スーパーの試食配りから家庭教師、居酒屋、ホテルのレセプションなど、あらゆるアルバイトに力を注ぎました。ホテルのレセプションでは外国人観光客の方と英語で交流する機会に恵まれるなど、この時に色々な職種を経験したことが後の人生を豊かにしたと思っています。
他にも、4年生の時に一般社団法人日本薬学生連盟交換留学委員会で委員長を務めました。研究や実習、国家試験の勉強に追われる薬学部に所属しながら、課外活動や海外に目を向けるのは本当に大変でした。ある時、北海道の薬学生から「なかなか海外の学生と交流したり、海外の医療を勉強する機会が少ない」という声から、「じゃ作っちゃえばよいか」と思いたち、北海道地域に初めて留学受入れプログラムを作りました。
この経験から、「もっと薬学部の大学生が学生のうちから留学しやすい体制が整うと良いな」と今でも自らプロモーションしています。とにかく、医療従事者は大学での勉強・実習・研究で手一杯なのを私自身は身をもって実感していましたし、周囲に留学する人が少ない中で自分もそのプログラムを使ってインターンシップしたいと思うようになりました。そして、何とか見つけたのがトビタテ!留学JAPANのプログラム留学支援制度でした。
5年生の時、ついに留学へトビタった。
5年生の時、無事にトビタテから合格を頂き、目標としていた留学を実現する機会に恵まれました。留学先として選んだのは、イギリスとエジプトです。後発医薬品の製剤比較という研究内容に近しいインターンシップ経験を、新興国と呼ばれる製薬会社内で得られるというのも、エジプトを留学先に選んだ理由の一つです。
エジプトでは製薬会社でインターンシップを行い、朝から夜まで後発医薬品の開発に携わりました。エジプトは偽造医薬品(以下、偽薬)流行国の一つであり、医薬品の製剤評価や麻薬検査などの社会課題に関する調査研究が進んでいます。偽薬を接種すると別の病気を誘発し、最悪の場合死亡してしまうケースもあります。偽薬は経済的に裕福でない国で流通しやすく、悪名高いビジネスとして主に中東やアフリカで広がっています。製薬会社内ではハラルに関する開発も行われており、マイノリティーな文化に根差した医薬品開発に携われた経験は本当に貴重でした。
他にも、興味のあった自然治癒療法についても薬局インターンシップで学ぶことができました。日本では国民保険への加入が義務付けられていますよね。体調の変化を感じるとすぐに病院に行ける環境が整っていますが、これは世界的に見ると当たり前ではありません。エジプトのような国で病院に行くのは限られた人のみ。多くの人が体調不良になるとまず薬局を訪れます。そのため国民の健康意識は意外と高く、できる限り病気にならないよう気を付けている印象を抱きました。
しかし、格差の拡大が問題になっていて、食事に気を遣うお金がなく栄養失調に陥る人が多いのも事実です。「食べられる=お金がある」と見せる風習もあり、日本の生活習慣病とは異なる意味で肥満の人もいました。課題も多いエジプトの医療現場ですが、実はエジプトの医学は西洋医学の先駆けになったとも言われています。実際、エジプトでは日本で言う漢方のような薬草が普通の医薬品と同じくらい頻用されていて、薬草に関する研究も進んでいました。古代文明から続く長い歴史の中で、集まった症例に基づく医学療法も存在していて、原点に立ち返って現代医療について改めて考える良い機会になりました。
その後イギリスにも渡り、交換留学生として2ヶ月半現地の大学に通いました。英国薬剤師免許を取得するためのコースで、アジア・中東・アフリカ地域といった様々な国の薬剤師の方が学びにきていました。既に薬剤師経験をもっているコースだったため、レベルが高く着いていくの必死でした。イギリスの保険制度や医療体制は世界的にも注目されており、エジプトとは今後の医療のあり方という視点では異なる学びを得ることができました。
製薬会社開発部門のインターンシップメンバーと一緒に
ハラル向けのOTCクリーム剤の開発の様子
カイロ市内の薬局インターンシップ
偽薬調査メンバーと一緒にカフェで束の間の休憩
医療に関わるか迷った果てに、大手人材ベンチャーに就職。
留学から帰国して待ち受けていたのが就職活動でした。留学経験も踏まえ、薬剤師やMR(医療情報担当者)になり薬局や病院に勤務するのも一つの選択肢だったのですが、ファーストキャリアで海外、特に新興国に携わりたいという思いが強く残っていました。「何をするのか」よりも「海外との接点があること」「ビジネスの基礎を学べること」に焦点を当てて、いくつかの会社を見ました。自分が掲げた条件を満たしてくれそうな会社は、数社見つかりました。
何社か最終面接にも進みましたが、内定をもらっても「私が身に着けたいスキル」や「海外との接点がない」と思った時には面接の途中で辞退しました。国家試験やインターンシップもあったので、どうしても就活に時間を割くのが私にとってはマイナスでした。なので、効率よく、ファーストキャリアで将来のやりたいことに繋がると確信した会社に入ることにしました。実際に就職したのは、日系メガベンチャーの人材会社です。面接で新興国に携わりたいという思いを伝えた時に「いいね!」と共感してくれた会社でした。
入社後は、日本で働きたい外国人の雇用創出と、日系企業に外国人人材を紹介する業務に携わりました。法人営業を通し、外国人が日本企業の中でどうやったら働きやすくなるのか、どんなスキルの外国人が求められるのかを考え、間接的ではあるものの海外に携われた経験は貴重でした。
それでも、大学時代の留学をきっかけに抱いたアフリカへの想いを捨てきることができず、日に日にアフリカでビジネスがしたいという思いが強くなっていきました。当時会社で所属していた海外事業部は社長と直接やり取りができるなど、風通しの良い環境で働かせていただいていたのですが、プライベートでお小遣い稼ぎ程度に取り組んでいたビジネスが上手く回り始めたこともあり、退職を考えるようになりました。思い立ったらすぐ行動に移す性格もあり、社会人1年目で会社を退職しました。
友人と共に社会課題に特化した事業立ち上げ。
実は退職前からタンザニアのビジネスパートナーと共に事業をスタートさせていました。ごみや糞尿などの廃棄物をバイオマス(再利用可能な有機物資源)に変え、村で薪を使っている人々に届けていきます。ただそれはいくつかある事業のうちの1つで、他にも農業プロジェクトや人材育成、アフリカ進出のお手伝いをしながら現地の社会課題をビジネスに結びつけようと奮闘しています。正確には日本で法人を立ち上げ、それを今後タンザニアだけでなくアフリカ各国の現地ビジネスマンと社会課題解決型事業を作っていく流れです。
タンザニアに着目したのは、タンザニアから日本に来ていた留学生に出会い、一緒にビジネスをやろうと話していたことがきっかけでした。彼女は一度民間企業と政府機関で社会人経験を積んだ上に、日本の大学で環境エンジニアとして留学しているという日本では出会えないような貴重な人財でした。
社会課題への問題意識が高く、自然と一緒にビジネスをやりたいという話になる中で、帰国後卒業するまでの間に、彼女の職場である国営の貿易会社を訪れてインターンシップも行い、新規事業開発と市場調査に携わらせてもらいました。下水設備の衛生環境の調査や中国系企業との貿易業務補佐を担当する中で、アフリカにおける環境の悪化は社会問題である一方で、ビジネスチャンスでもあり、大学時代に学んだ薬学の知識を活かすことができるかもしれないと思うようになりました。
今後の目標はアフリカ地域で人々の経済的な自立を支援すること。
大手企業が手を付けないようなニッチな分野でスモールビジネスを立ち上げたいと考えている私にとっては、現地の仲間と仕事ができることはとても価値があります。今後も現地のニーズに合わせて、地域の人に寄り添ったビジネスモデルを、仲間と共に作り上げていきたいです。
目標はアフリカ地域の人の経済的な自立を支援することです。同世代の起業家と協力しながら、若者や女性のエンパワーメントに力を入れていきます。アフリカでは色々な社会問題がありますが、現地の人の声を聞くと、どれも行きつくところは「貧困」。そこでそれらの課題を少しでも改善できるように経済圏を作り、彼らが自分たちで自立していけるような仕組みを作ります。
角田さんの就活タイムライン
英語力について
英語は独学です。私は大学に入学してから留学するまでの時間に集中的に英語を勉強しました。エジプトでの会話はアラビア語でしたが、医療の領域は全て英語で学びます。日常会話だけでなく医療の専門用語も理解しなくてはいけなかったので、医療関係者の友人を作って英語を教えてもらったり、会話の中でもできるだけ専門用語を頻用するよう意識したりしました。難しい単語を覚える際には絵を描くようにして覚えたり、壁に貼って暗記したりしました。使わないとまた忘れてしまうので、今でも英語は勉強し続けています。
日本人は完璧な英語を話すことに拘りがちですが、私が留学していたエジプトではみんなそこまで考えずに英語を話していました。「文法を完璧にしよう」「流暢な英語を喋れるようになろう」と考えるのではなく、まずは「友達を作ろう」というようにハードルを少し下げて考えると良いかもしれません。世の中、英語が母国語でない人は山ほどいるので完璧に喋れる必要はないです。大事なのは「伝えようとすること」だと思います。
角田さんからのメッセージ
角田さんの留学についてもっと知りたい人へ
トビタテ!留学JAPAN公式ホームページで公開されている留学大図鑑から体験談を読むことができます。
※留学大図鑑とは…海外にトビタった経験を持つ1757人(2021年2月現在)の留学体験談をもとに、計画の立て方や課題の解決方法を検索できるサイトです。留学を検討している人は是非活用してみてください!